2011年8月27日土曜日

Blogger.

<今日の仕事を終えて一段落しているところ。仕事を終えたと言ってもやろうと思えばまだすべき仕事はたくさんあるのでとりあえず見切りをつけた、というところか>

hirokickman: 最近忙しすぎてちょっと標本の量を絞ったらなんか暇になってきた気がする。

mos: それはそれでいいのでは?

hirokickman: まあいいんだけど。ちょっと前までは標本を早く読めるようになりたい、他の人はこれだけやっているのに(他の人のブログをちょろっと読んだだけだけど)自分はまだ全然できていないとか思っていたけれど、最近はどうでも良くなった。

mos: ある境地に達した?

hirokickman: 境地に達するというよりも自分に対してあまり期待を抱かなくなったというか。例えば診断力を向上させるのは自分次第な所があるけれど、やっぱり誰かに教えてもらわなければどうしても無理な所がある。

mos: 例えば?

hirokickman: 大腸癌なんかでも脈管浸潤は?と言われれば教科書を指して典型像を見せることはできるけれど、実際のバリエーションはかなりあって、わかっているはずなのに「えっ、これも??」と言いたくなるようなことは多々ある。

mos: なるほど。それと期待を抱かなくなるのはどう関係があるの?

hirokickman: 職人の技術伝承みたいに(何らかの形で)教えてもらうことが前提のトレーニングでは上達のファクターとして本人のやる気と教える側の技量というものがある。両者が揃っていないと効果的には上達しない。その中で頑張ってきたけど、若干空回りしていたというか、どうでもいい要因に躓いていたというか。

mos: なんか言い方がまどろっこしい。

hirokickman: そう。具体的に言えば現実に近くなるからね。このブログを読んでいるひとは多分個人的に自分のことを知ってくれているひとが多いと思うんだけれど、それでも一応「匿名・フィクション?」という前提なのでまあこんな感じになる。

mos: なんか色々な制約のもとに生きているんですね。

hirokickman: まあ世の中そんなもんだよ。比較的自由にやっている方だとは自分では思うけれど。さっきの表現を変えるならば「勉強してこい!」と送り出してくれるにもかかわらず「誰も教えてくれない」ことが度々あるということ。

mos: 普通の社会ではよくあることでは?ほらCMでもAプランBプランCプランと逐一変更になってたでしょ。

hirokickman: あのCMとは違うけれど、心境的には似ているものがある。

mos: しかも給料貰って研修しているんだから「教えてもらうのが当然」という立場は不自然なのでは?

hirokickman: まあたしかにそう言われればその通りで「正論」からすれば反論のしようがない。でも初期研修上がりでストレートに病理に進むのは多分今ではかなり稀な存在のはずだから(今は初期研修を終えないと病理専門医の受験資格がない)、もうちょっと大事にしてくれてもいいと思う。

mos: それは本人が言うセリフじゃないってw

hirokickman: そうなんだけど、人にはできることとできないことがあって、自分の性格上「教えてもらわないと」出来るようにはならないし、「仕事をする様を見て全てを学ぶ」のは不可能。また「対人関係を拒絶している上司」と上手く人間関係を築けと言われても無理だし「無難にやれ」と言われても具体的なラインを示してくれないと要求に答えられない。

mos: なんか発現が過激になってきている気がする。。。。

hirokickman: いや、そうでもないよ。ただ言いたいのは無理な要求をされたら潔く去るのみ。これは高校生の時から考えてはいたんだけれど、「高校辞めたい」と言っても駄目だったし、「大学辞めたい」と言っても辞めて医師免許が取れないのは非常に痛かったので何とか卒業はした。初期研修も結構きつかったけれど頑張った。そして今はある種の自由になった感じ。もちろん上を目指せばいくらでも頑張る必要があるけれど、自分が希望すればそのままのんびり出来る。のんびりした生活なんて多分何十年も出来るわけはないとは思うけれど、少なくとも今の時代にはそういう選択肢がある。

mos: なんか今が義務を果たした後の延長線上を漂っているような感じ?

hirokickman: そんな感じ。「逃げ場」があるから頑張れる。ここまで言うとあたかもすぐ辞めそうな感じに思われるかもしれないけれど、機械と一緒で遊びがあるからとりあえずうまくいく所がある。多分そう簡単に逃げ出すことはないとは思うけれど、「どうにもこうにもならない」時が来ないとは言い切れないのでその時の保険になる。

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